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 草庵先生日々の暮らし 池田草庵先生に学ぶ会
    草庵先生紹介

63 亡くなられても生き続ける教え

 草庵先生は、青谿書院に住むようなってからはずっと日記を書き続けられていた。
その日記の最後は、次のような一文だけ書かれている。
「早起き」(明治11<1878>年9月8日)

 後を続けて書く元気は、もう草庵先生には残っていなかったのかもしれない。その日の事をこれだけ書くのが精いっぱいだったのだろう。

 この2年前明治9年には、慈しみ期待していた長女と長男が病気のため相次いで亡くなるという悲しいことがあった。そのようなこともあってか、明治10年には体調を崩され、その頃できたばかりの豊岡病院で治療を受けたり、京都の病院で診察をうけたりされていた。しかし、体調はなかなか回復せず、多くの人の勧めにより明治10年11月には東京の順天堂病院に、翌年の5月まで入院されていた。

 東京から宿南の青谿書院に帰られてからは、病気の回復に努めながら、塾生への講義も少しずつ続けられていた。しかし、9月なってから急激に病状は悪化して、記も書けなくなっていった。そして、9月24日草庵先生はとうとう亡くなられた。66歳だった。

 先生は青谿書院からもよく見えるお墓に葬られた。2年前に長男のためにお墓を作られたばかりのところだ。先生は亡くなられたが、先生の教えはいつまでも生き続けている。青谿書院は多くの人の努力で現在まで保存されてきた。先生の生き方や教えは多くの門人達に引き継がれ、全国のあちこちで花開いてきた。また、書かれた文章などなどからは、現代に生きる私たちも多くのことを学ぶことができる。

 (長い間、広報紙の貴重な紙面を割いて池田草庵先生について紹介をさせていただく場を作っていただき、ありがとうございました。一応今回で終了とさせていただきます。これからもお互いに草庵先生から学んでいきたいものです。

             (池田草庵先生に学ぶ会)
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62長兄のこと

 草庵先生は4人兄弟の3番目、長兄とは12歳離れていた。草庵が10歳の時、母親が病気で亡くなり、父親も病弱であった。そのため一家離散のような形で、次兄や弟は、大阪に奉公に行くことになった。しかし、草庵先生は長兄の勧めなどもあり、真言宗の満福寺(養父市十二所)に入り小僧としての生活を始めた。

 長兄は孫左衛門という本名であったが、子定という号も用いていた。長兄子定は、草庵先生が学問を修める資質があると見ていたのだ。草庵先生がお寺での修行中も、そこから京都に出て儒学の道に進んでからも、いつでも支え力になっていた。ふるさとに帰り、青谿書院を開いてからは毎日のように書院にいって草庵先生の力になっていた。

 子定自身は若いころ医師になるとことを目指して、大阪に出て修業していたことがあったのだ。しかし、両親の強い反対にあい、志半ばでふるさとに帰ったのである。そういうことがあったからだろう、草庵先生が学問の道に進むのをいつでも応援ていたのだ。

 なお、子定が大阪で学んでいた同じ塾の先輩に相馬九方がいた。この縁で九方を但馬の広谷(現養父市広谷)に招くことができ、お寺の小僧であった草庵先生の新しい道を開くことにもなったのである。

              (池田草庵先生に学ぶ会)
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61病と闘いながら

 草庵は病弱な体質で、人一倍たくさんの病を抱えていた。

「昼、のどが詰まって手のひらに血を吐く。午後横になるが、胸の辺りになお痛みがある」(嘉永3年3月20日、39才)。
「歯が痛く夜は読書できず、空しく過ぎる」(安政4年、47才」。
「腹部激痛あり。ほとんど一日横になって休む」(安政6年、49才)。
「風邪気味。遅く起床。検読2人授読6人。昼寝後、講義」(嘉永2年、37才)。
「胸郭に痛み、たびたび横になりながら講義」(慶応3>年、54才)

 吐血、歯痛、腹部激痛、風邪、胸郭の痛みなどの症状が日記にはたびたび出てくる。草庵の妻久の兄は医者の國屋松軒であり、よく相談したり診てもらったりしている。それだけでなく、自分で体調を整えようと努力していた。
「早起き。部屋の掃除、黙坐をする。朝、池口家に行き、背中と腰と脚にお灸する。
夜、まだ腹部がよくない」(安政6年8月11日、47才)。

 お灸ではまだ快方に向かわないので断食もしている。
「昨日の夕方より断食。今朝も断食。とても疲れていて、今日は休講とする。塾生に腹部をさすってもらう。読書もできず空しく一日が終わる」(同8月12日)。
お灸をしたり、断食をしたりしている。草庵は自ら体調を整えながら懸命に日々努力していた。
                  
               (池田草庵先生に学ぶ会)
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60 旧暦から新暦へ

 平成30年が始まり、カレンダーも新しいものになった。現在のカレンダーは太陽の動きをもとにした太陽暦だ。しかし、日本では明治5年11月までは月の動きをもとにした暦、今で言えば旧暦が使われていた。草庵たちはこの旧暦をもとにして生活していた。ところが明治5年11月に突然法律で「次の12月3日を明治6年1月1日とする」と決まった。この時から、今までの暦(旧暦)に代わり新しい太陽暦を採用することになった。

 人々とっては、正月が12月を飛ばして1ヶ月早くきたのだ。草庵は、それでも普段の正月と変わらない過ごし方をしていた。しかし、旧暦の感覚を捨てきれない草庵でもあった。

「早起き。今日は旧暦の元旦なり。休講。片山に行き、池口家に寄って帰院。昼小酌、酔ってしばらく横になって休む。今日は、福沢某の著すところの『改暦弁』を一、二度読む。(後略)」(明治6年同年1月29日)新しい太陽暦になったが、旧暦の元旦に当たる日にはやはり正月を意識して過ごしている。そして、この日の読書は「改暦弁」という、福沢諭吉が太陽暦について書いたものを繰り返して読んで勉強している。草庵の誕生日は7月23日だが、「早起き、休講。今日は私の正当な誕生日なり」(同年9月14日)と旧暦を意識して書いている。新しい世の中の動きにも従いながら、しかし今までの生活様式、感覚を大事にしている草庵の姿がある。

                   (池田草庵先生に学ぶ会)
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59 寮生の食事

 青谿書院では寄宿舎に入っている者が、多いときは60人を超したこともあった。この若者たちはどのように食事をしていただろうか。青谿書院で学んだ人たちから聞いた話がまとめられている『但馬聖人』(豊田小八郎著)には、次のようなことが紹介されている。

 ・寮生の食事
「生活は極めて質素であった。食事は一年を通じて朝はかゆにたくあん3,4切れ、時としては胡麻塩が添えられることがあった。昼はごはんに干し大根入りの味噌汁。夕食は茶漬け飯に漬物あるのみ。ただ毎月の三慶日の昼食には塩魚乾魚が出ることもあった」

 ・仕事の分担
「水汲みや飯炊きなどすべて生徒の当番が割あてられ、順番にやっていた。13,4歳の幼い塾生は主に掃除、時には豆腐を買いにいくことも。15,6歳の者は炊事をやり、20歳前後の者は指導の立場だった。金銭会計のことは、塾生の中から委任されていた」

 ・食費について
「食費は毎日米5合と薪炭魚菜料が多少必要だった。これらは米かお金で納めていた。会計係が月末に過不足を決算した」
 寮生たちは質素な生活の中で、かなり自治的な活動をして日々を過ごしていたようだ。

                     (池田草庵先生に学ぶ会)
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58 塾生の病気

若い塾生たちは、元気な時ばかりではない。急に発熱、腹痛などを訴える者もよくあった。

「塾生1人大発熱。医者を呼び看病する」(嘉永元<1848>年9月19日)。
「夜中、すでに寝ているときに名尾新太郎(多度津藩士)気分が悪くなる。起きて医者を呼ぶ」(安政2<1855>年8月18日)
「塾生1人腹痛。いろんな事があった」(安政<1858>年6月25日)

 病人の診察は、妻の兄である國屋松軒(八鹿村)が来て当たることもあった。しかし、松軒は遠方のため、たいていは書院の近くに住んでいた三方医師が当たった。

 塾生が何十人もいるのだから、伝染病の時は大変だったようだ。一人が発病すると次々と伝染していったのだろう。
「今日塾生10数人麻疹(はしか)になり寝かせる」(文久2<1862>年6月22日)

 青谿書院の中で一度に10数人もの塾生が麻疹にかかっている。草庵は講義どころではなかったのではないか。
                             (池田草庵先生に学ぶ会)
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57 勉学することも働くことも

 書院の周辺には「数畝の畑があり。ここに野菜を植えていた」(『但馬聖人』豊田小八郎著から)とある。具体的にどれくらいの広さだったか不明だが、寮生に必要な野菜などはかなり収穫できていたのだろう。

「学ぶ者は仕事や働くことを嫌がっていけない」(『偉業余稿』93条)と草庵先生が言っているように、机に向かって学問することも、体を使って働くことも大事にしていた。

 昭和32(1957)年に青渓中学校という青谿書院の名前を引き継いだ中学校発足した。その初代校長は宿南在住の渡辺武一氏で、氏は学校の方針として生産教育を重視された。それは農産物の生産や家畜の飼育で、人間教育をするというものであった。「作物が育てば、われらも伸びる」が同中学校のモットーであった。草庵の目指した教育はこのような形で継承されていた。

 なお、こんな話が残っている。青渓中学校の発足の時に、その校名を「青谿」中学校とする案もあったが、それではどうもおこがましいという意見が出た。その時、当時の県知事の坂本勝氏が「青渓」という文字にしたらどうかと提案があり、「青渓中学校」という名前に落ち着いたということだ(『永遠なり青渓中』青渓中学校閉校記念実行委員会編から)。その「青渓」の名前は、その後現在の「八鹿青渓中学校」に引き継がれている。
                           (池田草庵先生に学ぶ会)
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56 コウノトリも飛んで来た

 コウノトリが、多くの人たちの努力によって再び日本の空に帰ってきつつある。過日も、伊佐地区のコウノトリ放鳥拠点施設で育っていた幼鳥2羽が放鳥されたことがニュースになっていた。

 かつて青谿書院の前の山にもコウノトリがやってきて、草庵を楽しませていた。

 「前の山の峰に、高くそびえている松の木がある。その枝の上に鶴が来て巣を作り住んでいる。書院からこれを見ると、この付近の風景が何倍もすばらしいものになる」(『肄業餘稿』164条)
 草庵が鶴と書くのは、コウノトリのことだ。前の山の一本の松の木にコウノトリが住みつき、草庵を喜ばせている。草庵はコウノトリに親しみを持ち、詩や文章にはよく書いていている。

 「鶴」(=コウノトリ)という漢詩には次のようなことを書いてる。
「私の土地にはもともとコウノトリはいなかった。あちこちに網をしかけて捕える人たちがいるので、静かなここに来て遊んでいるのだ。谷川で水をつついて魚を食べ、風を受けて休み、俗世間から離れて楽しんでいる。世間から離れているのは私もだ。私もおまえと一緒に高く飛び立ち広々とした雲の中にはいりたいものだ」
コウノトリが静かな谷間で遊んでいるようす、そして空高く悠々と飛ぶ様子に自分の願望を重ねているようだ。
                            (池田草庵先生に学ぶ会)
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55 お墓参り

 草庵先生は、先祖を敬い、亡き人たちを大事にする気もちがとても強かった。日記を読むと、墓参りをしたことがよく出てくる。
「早起。結髪。丘の墓に上がる。片山(実家)に行く。しばらくしてから、帰りには池口家(親戚)に寄ってから帰院」(文久元<1861>,年4月1日)「早起。坐。食後、丘の墓に上る。片山に行き帰り池口に寄ってから帰院」(同年5月15日)毎月の1日と15日は青谿書院の休講日で、この日には決まって墓参りをしていた。それに、父母や祖父母の命日、それに自分の誕生日などにも、決まって墓参りをしていた。

 その墓は、実家のすぐ近くの丘の上にあった。青谿書院からは、歩いて15分か20分ぐらいで行ける。墓のすぐ下が片山という字名で、そこに実家があった。墓参りの前か後かには、必ずといっていいほど実家に立ち寄り、帰りは途中にある宗恩寺のそばの親戚の池口家にも挨拶をして書院に戻る。これが草庵の墓参りのコースであった。

 年を重ねて体が弱って来たときは杖をついて上がったり、妻や息子に代わりに行ってもらったりもしていた。
                              (池田草庵先生に学ぶ会)
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54 子供たちの誕生

 草庵先生の誕生日は、7月23日だ。青谿書院の資料館には、「文化十年七月二十三日 歌蔵誕生祝儀受納覚」と書かれた祝儀帳が展示されている。草庵先生が生まれたとき、隣近所や親戚などからお祝いを贈られ、その一覧をまとめたものだ。60人ほどの人から、せんす、鯛、米の粉、鮎などが贈られている。これを見ると、草庵の誕生を両親を初め多くの人が喜びで迎えたことが伝わってくる。草庵は、この祝儀帳を生涯手元に置いて大切にしていたという。

 江戸時代には、誕生日が来ても年齢が一歳増えるとか、プレゼントをもらえるとかいうようなことはなかったから、自分の誕生日を意識している人はそれほど多くなかったのではないだろうか。しかし、草庵先生はいつでも自分の誕生日を強く意識していた。草庵先生は、誕生日には両親の思い出を文章に書いたり、墓参りして生み育ててくれたことに感謝をしている。
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28歳の誕生日に「追想紀言」という両親の思い出を書いた中の一つを紹介する。

 「幼い時、私はいつでも母にくっついていた。母は、夜はしばらく私と一緒に寝て、私が寝るのを待って機織りなど一生懸命やっていた。私が目覚めて泣き止まなかった時があった。母はそばに来て言った。おまえは片時も私から離れようとしないが、私が死んでしまったらどんなにさがしても見つからないのですよ。そんな時、あなたはどうするのですか、言った」
                               (池田草庵先生に学ぶ会)
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53 子供たちの誕生

 長女の誕生後約8年経って、次女が誕生した。
「今日の夜、女の子産まれるなり」(安政4<1857>年2月24日)
 と、日記に書いている。この女の子は竹乃(竹野の表記もある)と命名された。
 その後、竹乃の誕生から5年経って長男が誕生し、徹蔵と命名された。徹蔵も順調に育ち、徹蔵の4歳7ヶ月のころには、読み書きの手ほどきをしている。
 「今日徹蔵に初めて『三字経』を授ける」(慶応3<1867>,年8月16日)とある。
 「三字経」というのは、初心者用の書物で、「父子恩、夫婦従、兄則友」など3文字を一句として、学習しながら人の生き方の基本を学ぶようになっている。草庵は、長男徹蔵に期待するところが大きかったのだろう。徹蔵も期待に応えて成長していった。
 その後、元治元(1864)年には次男の脩藏、明治2(1869)年には三女の藤枝が誕生した。明治4(1871)年に長女の蘿(つた)が20歳で八鹿村の國屋氏に嫁ぐが、それまでは二男三女の子供たちがいてにぎやかな草庵一家であった。

                   (池田草庵先生に学ぶ会)
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 52 長女誕生と妻の病

 草庵に初めての子どもが誕生した。その時のことを、日記には次のように書いている。

 「夜、村の女性数人来る。また親戚も集まる。医者が来る。國屋松軒来る。いろいろなことあり。家中混乱。夜明け近く4時ごろ妻、女の子生む。一晩中眠らず、明け方少しだけ寝る」(嘉永2<1849>年6月22日)おめでたいことのはずなのに、人の出入りが次々とあったりして、何か尋常でないことが起こっている雰囲気が書かれている。妻の体調がよくなかったのだ。女の子は、「蘿子(つたこ)」と命名はされた。

 「妻の病、大変重くなっている。親戚者みな集まる。混乱している。國屋松軒も来て、泊まる。片山(実家)に行き、霊位を拝する」(同年6月27日)

 妻は、いわゆる産後の肥立ちがよくないという状態だった。このような状況が11月半ばまで続いた。その間、日記『山窓功課』は、ほとんど空白だ。それほど妻の看護に全精力を使っていた。その間も、塾生への講義などは怠らずなんとかやっていた。

 それが11月の半ばに、今まで空白だった日記が突然また書かれ始める。草庵の懸命の看護のおかげで、妻は約5ヶ月間かかってやっと回復してきたのだ。誕生した長女蘿子も順調に育っていった。草庵も日々努力していく今までの生活に戻ることができたのだった。

                (池田草庵先生に学ぶ会)
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51 書院に庭で花見

 草庵は松やもみ、かしの木を好んでいた。これらの木が天に向かって伸び、冬の寒さの中でも凜(りん)として立っている姿に惹かれていた。しかし、それらの木だけではなく桜も庭に植えて、それらが咲くのを楽しみしていた。

「今日、池口家の主人が庭に桜の木を一株植えてくれる」(弘化4 <1847>年10月12日)
「今日、庭際に桜2株植える」(弘化4 <1847>年10月15日)
と、日記に書いている。

 数年して、これらの木が成長して花を咲かせるようになってきた。
「今日は桜の花満開で、婦人たちが何人かやってくる。村人も訪れる。みんな楽しく花を愛でる。昼間から小酌して横になる」(同年3月3日)

 書院の庭にも、桜が毎年咲いて春が来るのだ。草庵はいつも待ちかねていた。花が咲くと、草庵は一人では楽しまない。周りの人や知人を招いて一緒に楽しんだ。

 3月3日(旧暦)で雛の節句だったのだろうか。ちょうど桜の花は満開、村人も村の婦人たちも花を楽しみにやってきて、青谿書院の庭はにぎやかになってきた。こんな時には草庵もお酒の一杯も飲んで、めずらしく華やいだ気分の一日だったことだろう。

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50 妻との話す

 草庵は妻の久さんを青谿書院に迎えた。講義や読書で忙しい草庵であったが、久さんと話す時間はよく持った。久さんが書院にやって来た嘉永元年の8・9月の日記には、
「夕方から妻と団らん対話する」「夜、妻と話す」「午前、妻と団らん対話する。(中略)。夜、また、雑話する」などと続いている。

 対話だけではない。これは翌年の日記だが、「夜、妻に肩たたきをしてもらう」というような日もある。今まで、「幼い塾生に肩たたきをさせる」ということはあったが、今度は妻がやってくれるのだ。

 しかし、久さんと楽しい時間ばかりではない。結婚から5年ほど経ってからのことである。
「妻と対話する。深く反省させられる所があった。普段のいろいろな思いやりのない自分の言動に気づく。改めていかなければならない」。久さんと対話をすることによって、平素の自分の言動に思いやりのなかったことに気づいているのだ。

 こういう草庵について、草庵亡き後、久さんは「(夫は)普段の行いに裏表や陰日なたのない人だった」と語っている。

 草庵は自分の生き方として、「慎独」(独りを慎む=どんな時でも自分の身を慎み、まちがったことをしない、との意)を常に心がけていた。妻との間でも草庵は「慎独」の生き方を大事にしていたのだ。
               
             (池田草庵先生に学ぶ会)
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49 妻を迎える

 草庵は35才の時に結婚した。青谿書院に住まいを移した翌年である。これは甥であった池田盛之助たち若い門人が、気をもんで世話をしたようだ。

 新婦は、八鹿村の医師國屋松軒の妹の久である。久はこの時20歳前後であったと思われる。松軒は草庵の立誠舎時代からの門人で、盛之助らとともに草庵を支え続けていた人だ。

 結婚式は、草庵の川西にあった実家で行われた。日記によると、その日は新婦を草庵の実家に残したまま自分だけ書院に帰っている。そして、その後も新婦はしばらくは草庵の実家に留まったままである。その間、草庵は書院で塾生に講義をしたり、新婦のいる実家に行って泊まったり、体調が悪くなって寝込んだりしている。

 結婚式から4日目に、「兄嫁が新婦を連れて書院に来る」と日記に書いている。初めて妻が、青谿書院にやってきたのだ。その日も講義をしたり、読書したりしていたが、「今日は、お茶にしたり、団らんしたりした。夜、兄と盛之助が来て、しばらくして兄は帰った。身の回りの雑事も悠々とする」と、妻との新しい生活が始まったことを書いている。

 塾生たちがいたというものの、今まで一人で生きてきた草庵に、生活を共にしていっしょに歩む人ができたのだ。

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48 草庵の正月

 池田草庵は正月をどのように過ごしていただろうか。青谿書院にいた32年間の日記からは、だいたい同じような正月を過ごしていたことがわかる。青谿書院に移っておよそ20年後の正月の日記を要約してみる。

「慶応4<1868>年1月元旦。早起き。朝食後片山(実家)に行き、帰りは池口家(親戚)に寄って帰院。年賀の村人が時々来る」

 この年は9月からは明治元年となり、日本は激しく移り変わっているときである。しかし、まだ青谿書院ではいつもと変わらない新年を迎えたようだ。

「同年1月2日。早起き。今日も休講。一日中来客がある。『西洋紀行』を読む。午後、少し酔って横になって休む」

 次々と村の人たちは年賀に来た。草庵はいつものように快く迎え、応対している。来客と少し酒も酌み交わした。

「同年1月4日。(前略)村内に出て8,9軒挨拶に回る。西村家で小酌。午後帰院」

 この日は草庵は村の中に出て挨拶回りをしている。新年の始まり、宿南村の中で村の人々と生きている草庵の姿がある。

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47 青山に行く

 青谿書院という名前は、青山付近を源流とする青山川から名付けたと草庵先生自身が書いています。草庵先生は、青山の風景、人の住まいなどに心惹かれるところがあったようです。

 「昼食後、午後の講義『小学』。その後、塾生十数人と青山に登り周りの景色を見る。薄暮に帰院。(弘化4<1847>年8月6日)」

 塾生を十数人連れて、青山に行って周りの景色を楽しんでいます。これは草庵先生が青谿書院に入ってから2カ月ほど経ったころです。それからも、よく青山には行っています。

「午後、青山に行き遊覧。晩までいて帰院。(嘉永元<1848>年9月8日)」
「午後、塾生を連れて青山に上り茱(ぐみ)を採る。ゆったりとしてから帰る。(嘉永4<1851>年10月15日)」などとあります。ここにある茱は、秋に山などで見かける秋ぐみのようです。

 その青山に火事が起きたことがありました。
「早起き。明け方前、青山で火事がある。それで塾生を連れて青山にいく。夜が明けてから書院に帰る。<中略>青山の8,9軒慰問する。(慶応元<1865>年7月16日)」

 明け方の青山の火事は、書院からも見えたかもしれません。草庵は、急いで塾生たちとともに駆けつけています。そして、一仕事終わってからもまた出かけ被害にあわれた家々を慰問しています。

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46 寄宮の川原で遊ぶ

 寄宮地区に残る言い伝えによると、昔洪水があったとき、上流から神社の社殿が流れ「寄って」きて岩場の背に止まり、それを祀って神社にして、寄宮神社ができたそうだ。地名の「寄宮」もそこから来たという。円山川のそばに位置し円山川の影響をたくさん受けてきた寄宮らしい話です。

円山川の流れは、寄宮の辺りから川幅がずいぶん広くなっています。そこにはかなり昔から井堰(いせき)も作られていたので、川はある程度の深さや広さがありました。また、江戸時代の後半、円山川は舟運が盛んになり津居山までの舟が行き来していましたが、寄宮には船着き場もあり、にぎやかな所だったようです。昭和30年代前後には、青渓中学校に通うための渡し船が対岸まで設営されていました。

 草庵先生たちは、その寄宮の川で船を浮かべて楽しんでいます。日記には、「夜、寄宮に行って舟を浮かべて、楽しんだ。いっしょに行った者は数人。深夜に帰る。(嘉永4<1851>年7月5日)」と書かれています。

また、「今日は、西村氏の招きに応じて塾生十数人を連れて寄宮の下に舟を浮かべる。深夜に書院に帰る(嘉永6<1853>年6月24日)」とも書かれています。草庵先生たちは、川も楽しい時間を過ごす場であったようです。

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45 進美山に登る

 今年も春4月には、進美山頂上の白山神社の「願開き」、そして進美寺の「観音祭り」があり、宿南からも多くの方が登られたたようです。宿南から見る進美山の立ち姿はとても美しく、それにかつては山上から見る景色もすばらしく、昔から宿南の人たちにも親しまれてきた山です。

 進美山(すすみやま)は、国土地理院の地図によると正式には進美寺山(しんめいじさん)という名前ですが、草庵先生はこの山を「進美山」と書き、地元でも多くの人がこの名で親しんでいます。宿南小学校の校歌にも「我が郷は山ごもる里、進美山緑深く、常磐木のかたきこころに」(3番)とあり親しまれてきました。

 草庵先生も、この山のことを文章に書いたり、何度か登ったりしています。また、次のような日記があります。

「中山吉二郎と塾生十数人連れて、進美山に登る。暮れに帰る。夜は疲れが出た。動きにくく、足が腫れて座ると痛い。不安になって早く寝る。弘化4(1847)8月」
講義することや読書が中心の草庵先生には、きついことだったのかもしれません。

「午後、若い塾生十数人連れて進美山に上る。日置(現豊岡市日高町)に下山。暮れに帰る。(安政5(1858)年10月)」
 草庵先生にとっては、赤崎地区から登るルートは距離は短いが急坂過ぎたのかもしれません。

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 44 川で魚釣り

 日々忙しい草庵先生でしたが、付近の川に魚釣りに出かけることもありました。魚釣りについて、草庵先生は次のような文を書いています。
「幼い塾生を連れ、長い竿(さお)を持って、前の谷川に沿って魚を釣る。ほとんど俗世間から離れたようなゆったりとした気分になる」(『肄業餘稿』112条)。

 ここに出てくる「前の谷川」というのは、書院の前を流れる青山川だと思われます。青山川のどの辺りで長い竿を持って釣りをされたのでしょうか、興味あることです。草庵先生の釣りは、日常の煩雑さから離れ、静かな落ち着いた気分になれる時間でもあったようです。

 草庵先生は、「谷川」でだけでなく広くて大きな円山川でも釣りをしています。
「<前略>夜、若い塾生を連れて蓼川(たでがわ)に釣りに出かける」(嘉永5年6月18日」
 蓼川というのは円山川のことです。書院からは円山川までは手軽に行けたことでしょう。その翌日もまた講義の後に出かけています。
「<前略>夕方、蓼川に釣りにいき暮れ前に帰る」(嘉永5年6月19日)」

 よほど楽しかったのか、大漁だったのか、2日も続けて釣りに出かけられたのです。何をつり上げたのか、釣り上げた魚をどうするのかなどは書かれていませんが、草庵先生にとって、魚釣りは静かな時間が過ごせる楽しいひとときであったようです。

(池田草庵先生に学ぶ会)
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43 田間、郊原を逍遥

 草庵先生は付近の山々だけでなく、宿南の里の田畑の中、野原などもよく散策されている。日記『山窓功課』では、これら田畑の中などを歩いたときには「逍遥(しょうよう)」という言葉を使われていることが多い。自然に親しみながら、ゆっくりと散策されたのだろう。
「午後、幼い塾生を連れて前山に登る。田の間を逍遥して帰院。(弘化5年2月25日)」
「夜になって、幼い塾生を連れて田の間を逍遥して、桜の花を楽しむ。(嘉永6年3月1日)」
などと書かれている。

 また、郊原を逍遥ということも書かれている。
「夜、塾生を4.5人連れて村の郊原を逍遥する。(安政6年8月2日)」

 「午後、幼い塾生数人連れて郊原を逍遥する。堤防の決壊した所を見てから帰院(嘉永3年9月1日)」

 このころの宿南で、郊原というのはどういうところを指しているのだろうか。里から離れていて、まだ田畑にならず草などが茂っていたような所かも知れない。

 このような逍遥、散策について、長年草庵のことを研究されている木南卓一先生(帝塚山学院大学名誉教授)は、室内での静座や読書は「静の修養」で、草庵の散策などは「動の修養」と表現されている。そして、「(草庵は)動にしたがい、静にしたがい、修養に努められた」(「池田草庵先生」木南卓一著)と書かれている。
(お断り。現在朝日新聞但馬版に、週1回程度草庵先生を紹介する文章を書かかせてもらっています。この欄と内容等が重複することがあります。)

                          (池田草庵先生に学ぶ会)
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42 山を歩き自然に親しむ

 草庵先生は青谿書院に移ってまもなく、「青谿書院偶題」という長い漢詩を作られた。その初めの方に、青谿書院の周辺のことが出てくる。
「但馬の国は山がほとんどだ。私の里宿南村もその山の間にある。その里から少し離れたところに粗末な茅葺きの住まい(青谿書院)を作った。前の山には一本の松の木が立っている。そのふもとには小さな谷川が流れている。山は、夏には涼風が吹き、秋には小鳥がさえずる」(『青谿書院偶題』意訳)

 草庵先生の好まれた自然豊かな青谿書院周辺のことが書かれている。草庵先生は、これらの自然の中を塾生と一緒によく歩かれた。日記『山窓功課』には、次のようなことがよく書かれている。

「昼寝後、幼い塾生を連れて前山に登る。夕方、村の客数名来る。(後略)(弘化4(1847)年6月)」

 講義が終わってから、塾生を連れて前山に登ったのだ。前山というのは、書院の前に見える山で、夜気山とよばれている。

「午後、後山に登る。ゆったりと山を楽しんで帰ってから、風呂。(嘉永元(1848)年11月)」

 後山は、書院の背後にある山で源氏山のこと。前山、後山は書院の近くにあって、どちらもそんなに高くはない。すぐに出かけられる山だ。

 これらは、塾生を静座や読書などをさせるだけでなく、山野で自然に親しませることが目的であった。また、草庵先生自身や塾生たちの健康を考えてのことでもあった。

                             (池田草庵先生に学ぶ会)
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41 蛍を見に行く

 草庵先生は、塾生たちを書院の中だけで指導されていたわけではありませんでした。よく塾生を野外に連れ出し、歩いたり周りの自然を観賞したりされていました。健康の面からも、自然を愛する気もちを育てる面からも、野外に出かけられたのです。

 6月の夜には、蛍が飛び交います。草庵先生の時代にも、宿南では蛍がたくさん飛んでいたようです。そのころも宿南には、川もあり、用水路もあって蛍が生育しやすかったのでしょう。先生は、塾生と蛍を見に連れ出されました。日記『山窓功課』の中から、蛍を見に出かけた記述をいくつか抜き出してみます。(ここでの月日は、旧暦でのこと)

 「夜、塾生数人連れて里から外れた所を散策し、蛍を観る。(安政2(1855)年4月27日)」
 「夜、塾生7、8人連れて蛍を観る。(安政4(1857)年5月28日)」
 「夜、妻と若い塾生とを連れて、へちまと蛍を観てから書院に帰る。また、書院の庭で木の枝陰に入った月を観て楽しむ。みんなで座って蛍をしばらく観る。心から楽しめた。(安政6(1859)5月6日)」

 書院の周りにも、蛍は飛んできたようです。暗闇の中で飛ぶ蛍に、草庵は心洗われています。塾生や奥さんまで連れ出して蛍の飛ぶのを楽しんでいます。
 現在、蛍の飛ぶような夜、子どもたちはどのようにして過ごしているでしょうか。草庵先生や塾生たちのように、時には、暗闇を明滅しながら飛ぶ蛍にも心を寄せながら過ごしてほしいものだと思います。
                 (池田草庵先生に学ぶ会)
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         草庵先生紹介

40 村の女性たちもやって来た

 村の人がやって来るようになった青谿書院は、男の人だけがきたわけではありませんでした。村の女性たちもやって来るようになっていきました。

 草庵が宿南の青谿書院に移ってから一ヶ月ほど経たころの日記に次のように書かれています。
「(前略)昼寝後、お茶。しばらくして兄嫁が近所の婦女十数人を連れてくる。にぎやかに過ごしていた。この日は読書できず。夜がふけてから寝る。(弘化4(1847)年7月)」

 この日は、兄嫁が隣近所の女性たちを十数人も連れて書院にやってきています。草庵の日課である読書もできないほど、にぎやかに過ごしています。こういうことをきっかけにして村の女性たちも書院にやって来るようになってきたようです。
「兄嫁と村の女性数人集まり、にぎやかに過ごす。(嘉永2 (1849)年2月)」
「一老婆が来る。しばらくいろんな話をして、お茶にする。(嘉永6(1853)年11月)」
などと村の女性たちも次々に書院にやって来ています。

 女性たちはどんな話をしたのか興味ある所ですが、草庵先生の日記からは内容はわかりません。吉田公平東洋大学名誉教授は
「村の人たちがこんなにしばしば儒学者の元を訪ねていることは珍しい。草庵は、村の人たちのカウンセラー的な役割をしていたのではないか」(「平成27年度夏の青谿書院塾」での講演)と、話されていました。
                  (池田草庵先生に学ぶ会)
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39  開かれていた青谿書院

「村人が来てしばらく対話する。(弘化4年(1847)9月)」
「村人が数人来て対話する。(嘉永3年(1850)8月)」
「村人が来て団欒し、夜通し小酌する。読書せず。(嘉永7年(1854)2月)」

 草庵先生の日記『山窓功課』には、このように村の人たちが青谿書院にやって来て、対話したり、団欒したり、時にはお酒を飲んだりしたことがしばしば出てきます。

 青谿書院が建った時、草庵先生はその喜びを、「青谿書院偶題」という長い詩に書かれました。その中で、
「(中国の)昔のすぐれた人たちは、世の中にあわないようだと、山に入り門を閉じて暮らした」
と書いておられます。「門を閉じた暮らし」、それは世間から離れ、隠遁的な生活することです。草庵先生はそういう生きかたにも惹かれておられたようです。

 しかし、青谿書院は、門が閉じられていたのではなく、門は開かれていました。書院には、次々と訪問者がありました。親戚、友人、塾を卒業した人、そして村の人たち等々が訪れ、草庵先生と話し、時にはお茶を飲んだり、お酒を酌み交わしたりしています。草庵先生は、「今日は読書が2.3ページしかできなかった」などと嘆きながらも、やって来る人たちには、きちんと対応しておられました。

                     (池田草庵先生に学ぶ会)
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38  青谿書院での日々

 草庵先生は青谿書院に移った弘化4年(1847)から日記『山窓功課』を、亡くなる年までの32年間わたって書き続けられていました。これを広く誰でも読めるようにパソコンに入力してデータ化していくことになりました。一日一日は、簡潔に二、三行で書かれています。しかし、一年360日ほどが32年間にわたるので大量の作業になります。この作業を、この場を借りて宿南地区のみなさんにもお願いしたところ、十名余りもの方が協力してくださることになりました。ありがとうございました。おかげで予定よりもかなり早く、一応の入力の作業がこのほど終わりました。まだまだこれから点検、校正作業などがありますが、一区切りついたところで、いくつか紹介したいと思います。

 青谿書院に移ったのは6月8日、その10日余り後の6月17日の日記。(意訳)

 「塾生に検読四人、授読一人。講義は『史略』。習字をする。本を写した。読書は『通鑑』十ページ。夜になって、肩こりと歯痛が出る。幼い塾生に肩たたきをしてもらう。盛之助(甥)としばらく対話」

 この日の日記に塾生への読み方の指導(検読、授読)や講義、読書、対話などの言葉が出ています。これらのことは、32年間毎日のように書かれています。そして、その行間には「幼い塾生に肩たたきを」などの草庵先生の日常生活が見えることも書かれているのです。

                  (池田草庵先生に学ぶ会)
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37  冬の朝のこと

 草庵先生54歳、雪の降る寒い朝のことでした。青谿書院にやって来た人たちがありました。そのことを、先生は『肄業餘稿(イギョウヨコウ)』 (第300条)の中で、おおよそ次のように書かれています。

「幼児を背負った女の人が、食べ物を求めて来た。連れの夫は目が見えないようだ。この人たちは、このようにして日をすごしている。」

 この後、草庵先生の奥様が食べ物を手渡すと「背負われた子どもは大変喜び、夫婦もそろって、拝むように何度も礼を言った」と書かれている。

 さらに先生は、「私たちは、いろりを囲み、敷物に座って寒さを防ぐことができる。しかし、あの人たちは、雪の中を歩き、食べ物があるわけでもなく、家もない。手足は凍え、倒れてそのまま死んでしまう。なんと言うことだ」と、大変心を痛められているのです。

  さらに続けて、「貧しさやひどい災難、肉体的精神的苦しみにある人のことを、察する事ができるような人になることが大切だ。その上で、世の中をうるおいのあるものにする大きな仕事をしなければならない」と書かれています。『肄業餘稿』は、先生が塾生に話されたことをまとめたものです。若い塾生たちは草庵先生からこんな話を聞きながら、学んでいたのです。
 
                    (池田草庵先生に学ぶ会)
            草庵先生紹介

36  冬の夜

 前号で草庵先生が京都の西山で修業時代の漢詩を紹介しました。今号は京都の市内で塾を開いていたときの漢詩を紹介します。
 草庵先生は23歳の時から入っていた相馬九方先生の塾をやめて、一人山中で修業に入られましまた。そして、28歳になって山を出て、京都の市内で塾を開かれたのでした。その時代の漢詩です。

 冬 夜 偶 作    冬 夜 偶 作

寥々犬吠両三声 寥々(リョウリョウ)たり犬の吠(ホ)ゆる両三声(セイ)
撃柝方知夜四更 撃柝(ゲキタク)にて方(マサ)に知る夜四更
十萬人家睡夢裏 十万人家睡夢(スイム)の裏(ウチ)
推窓獨見月輪明 窓をおして独り見る月輪の明きらかなるを

【意訳】  冬の夜
   ひっそりとした中で犬の吠える声が二声三声
   拍子木の音がしてもう夜ふけだ
   町中のたくさんの家は夢のうちだろう
   私はひとり窓をあけて明るい丸い月を見ている

 昼間はにぎやかな京都の街中だったことでしょう。しかし、夜になった街は一転して、静まりかえっています。聞こえてくるものは、犬の吠える声と夜回りの拍子木の音。月は出て明るいのですが、ひっそりとしています。このような静けさこそ、草庵先生の心情にあうものであり、好まれたのです。
                  (池田草庵先生に学ぶ会)
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35 年の暮れの感慨

 今年も12月になってしまいました。この時期になると、年月の過ぎ去っていく速さを改めて思い知らされます。

 草庵先生も、まだ京都松尾の山中で一人修業していたとき、年の暮れになってあれこれと思うことが胸にわき起こってきたようです。それを漢詩という形で残されています。 草庵先生、26才の時です。その漢詩を紹介し、書き下し文も書いてみます。 


    戊戌歳暮感懐   戊戌(ボジュツ・天保九年)歳暮の感懐
      光陰石火非虚語   光陰石火虚語にあらず
      二十六年夢裏移  二十六年夢の裏(ウチ)に移る
      結髪尋師今壮大 結髪(ケッパツ)して師を尋ね今壮大
      悠々講習竟何為 悠々講習して竟(ツイ)に何をか為さん
                           『池田草庵先生著作集』より
【意訳】
   天保九年 歳の暮れの感慨
   光陰石火(年月は火花のようにすぐ消える)とは嘘の言葉ではなかった
   私の今までの二十六年間は夢のうちに過ぎていってしまった。
   (寺を出て)髪を結い九方先生を尋ねて来て今はこれからの夢がある。
   これから長く辛抱強く学問をしていって何事かを為そう。

 この漢詩を作られてから10年後の新年に、草庵先生はこの詩を思い出し、いっそう努力しなければと日記『山房(窓)功課』を書き始められました。
そして、その年の6月には宿南に青谿書院を建立されたのでした。
                     (池田草庵先生に学ぶ会)
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34 今瀧に遊ぶ

 草庵先生が、京都から帰って八鹿の立誠舎で塾を開いていたころ、先生は刺激し合う有人も近くにはなく寂しい思いをしていた。そんなとき、塾生ともに今瀧山に行った。そこにあるお寺の住職に招かれたのである。「今瀧」は、現在は今瀧(滝)寺という地区があるところである。高柳の八木地区から山道を3、4q登った所にあり、ちょうど八木城の背後になる。草庵先生は、そこに行ったことを、『今瀧山に游ぶ記』として書き残されている。天保15年(1844)、草庵先生32歳の時であった。次のようなことが書かれている。

 「花、大きな岩、そして滝、紅葉、それらを観ながら歩き回った。そして、谷に降りて絶壁の下から峰を見上げる。そこにござを敷いて、夕日が迫っている事も忘れて、詩や学問のことを議論した」

 「昨年、私はここ山陰に帰ってきてから、心淋しく心を慰められるようなことはなかった。しかし、今日のように、親しい者でこのような風景のすばらしいところにきて談笑し、初めて普段の不満や心の寂しさは一度に消えて、意欲も出てきた」(意訳)

 心慰められる景観、親しい者との談笑、それはまさに先生にとっては「遊ぶ記」であったのだろう。

 青谿書院に移ってからも、草庵先生の日々は読書や塾生への講義などが中心であった。それでも、時には塾生を連れて付近の山を散策したり、円山川で船に乗って楽しんだりすることもあった。それが草庵先生にとっての「遊び」でもあったのだ。

                         (池田草庵先生に学ぶ会)
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33 生野の変

 青谿書院ができた時代、日本の中はあわただしくなってきていた。外国を打ち払い朝廷を中心にした政治を望む人たちや江戸幕府の政治を支持する人たちなどが各地で争うようになっていたのだ。

 そんなある日、平野国臣が変名を使って青谿書院に草庵先生を尋ねて来た。平野は幕府を倒して朝廷中心の新しい政治をやらなければならないと考えていた一人であった。平野は、各地で幕府打倒のための戦いを起こそうとしていた。その先駆けとして、幕府の出先である但馬の生野代官所を襲撃し占拠しようと思っていた。そのめたには、草庵先生や書院の若者たちの力を借りれば、大きな力になると考えたのだ。

 しかし、草庵先生はその誘いを断り、塾生たちにも、「血気にはやり、功名心にかられて軽々しく行動してはいけない」と諭した。先生は「このような時こそ、世の中の動きから離れて、学問を敬って重んじ、世の中はどのようになっていけばいいのかを考える者がいることも大切なことだ」と、考えていた。

それでも、塾生であった北垣晋太郎ら三人は青谿書院を出て、その生野代官所襲撃に参加した。後に、生野の変(生野義挙)と呼ばれるようになったものである。

 生野の変は、二日間で終わり襲撃した者たちは、捕らえられたり、散り散りに逃げていったりした。北垣は長州の方に逃げ、平野は八鹿町上網場で捕まり、京都に送られて死刑となった。
 
                          (池田草庵先生に学ぶ会)
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その32 宿南の塾生

『門人帳』に記された氏名は673名ある。そのうち、「宿南」とか「宿南村」と記されている方は、18名にもなる。

 その方たちの氏名をここに記すことは、プライバシーのこともあって、若干問題もあるかもしれない。しかし、百五十年ほども昔、そこで学ぼうとされた先人に敬意を払う意味で、ここに記させてもらいたいと思う。また、遙かなご先祖に、以下の名前を通して出会ってもらえる方もあるかもしれない。

 「門人帳」(天保14年・1843〜明治11年・1878)に記された氏名を、およそ古い順に並べると次の通りである。

 池田盛之助  池口芳太郎  池田隆吉  西村亀太郎  宿南貞太郎 西村猪太郎  西村為蔵  三方寛十代  池口暉吉  西村楠之助  宿南大五郎  同苗龍吉   三方哲之助   秀 エ(宗恩寺)  西村友蔵  耕 雲(宗恩寺)  朝比兵吉  斎藤喜太郎
 
 今年の夏の青谿書院塾でも講師の吉田公平先生(東洋大学名誉教授)は「草庵先生の門人で、日本の政治を動かしたとか、日本の実業界で名をあげたとか、そういう人たちだけが偉いのではない。地域にとどまり、地域の幸せのためにこつこつとやってきた人もまた偉大なのだ。草庵先生は、宿南にとどまって、そういう人を育てたのだ」と、話されました。まさに上記の方たちは、そういう方たちであったのでしょう。
                            (池田草庵先生に学ぶ会)
           草庵先生紹介

その31 草庵の日記『山窓功課』をパソコン入力しませんか

草庵先生の日記『山窓功課』については、この「草庵紹介」の「その24」と「その26」で紹介したことがある。『山窓功課』は、草庵先生が、35歳になった年の新年から書き始められ66歳で亡くなる年まで30年余りの日々を簡潔に書き続けられたものだ。

 『山窓功課』の原文は、毛筆で書かれ、研究した人でないとほとんど読めない。しかし、この難解な原文を30年余りにわたって、心血を注いで読解され、読みやすい文字にしてくださった方がある。昭和18年から22年まで、宿南小学校校長であった西村英一先生である。先生の読解・編集された『山窓功課』上・中・下3巻が昭和54年青谿書院保存会から出版されている。

 今年の『夏の青谿書院塾』で講演された吉田公平先生(東洋大学名誉教授)は、この『山窓功課』を高く評価され「これはその時代の儒学者の生活や日本の儒学者のつながりまで解明できるものだ」と言われた。また、「これを何とかパソコンに入力しておくと、多くの人たちが読めるようになり貴重な資料になる」と言われ「池田草庵に学ぶ会」などに協力を求められた。

 そこで、「学ぶ会」だけでは到底できないので、ご協力いただける方を広く募ることにしました。次のように進めたいと思います。
・ 元になる『山窓功課』について
 西村英一氏が編集・解読され昭和53年出版されたた『山窓功課』を使います。この本は、現在は青谿書院にも残部はありません。『山窓功課』のない方には、パソコン入力するところをコピーして渡します。
・ パソコンソフトについて
 「一太郎」、「Word」のどちらかを使用する。
 縦書きか横書きかなど文書の様式は、最初の段階では自由。 

ご協力いただける方は下記までご連絡ください。

 連絡・問い合わせ先
宿南地区自治協議会 662-3400
   池田草庵先生に学ぶ会 代表 米田啓祐 662−3736
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            草庵先生紹介

30 青谿書院の塾生 その2

 青谿書院の資料館に入るとガラスケースがいくつか並べられている。その中の一つに「門人帳」が入っている。それは草庵先生が35年間にわたって自ら書かれた門人たちの氏名である。立誠舎を開いた天保14年(1843)から、草庵先生が亡くなられた明治11年(1878)までの35年間の門人の名前が一冊にまとめられているのだ。

 門人帳には、ひとり一人の氏名と入門年月と出身地だけが書かれている。その人の年齢やどれくらいの期間書院で学んだのかなどは、その門人帳からはわからない。

 例えば北垣国道は、立誠舎の開かれた年に、「但馬能座村 北垣晋太郎」と記入されている。そのとき国道は6歳の少年であった、ということである。これらは、国道自身が後に書いたものによってわかる。国道は、草庵先生が青谿書院に移られるといっしょに移り、生野の変の起こる直前に書院を出たということである。20年間余りも草庵先生の元で学んだことになる。国道のように幼い時から長年にわたって塾生になるのは珍しいことだっただろうが、おおむね、今の小学校高学年から大学生までぐらいの年齢の若者が青谿書院で学んでいたようだ。

  「門人帳」は、合計673名の氏名が書かれてる。地域別に人数を合計すると次のようになる。
  八鹿町内75  養父市(八鹿町を除く)50
  但馬(養父市を除く)265 但馬外283 (『草庵先生と青谿書院』参照)
  
これらの人数を見ると、但馬外の全国各地から多数の若者が青谿書院に学びに来ていたことがわかる。
                             (池田草庵先生に学ぶ会)
              草庵先生紹介

29 青谿書院の塾生 その1

 青谿書院が開塾した弘化四年、門人帳には33名の塾生の出身地と氏名が書かれている。この時入塾した若者である。立誠舎時代から引き続き塾生であった者も多くあったと思われるので、このときの塾生はかなりの人数であっただろう。

 この開塾した年の門人帳に記されている出身地は、宿南村、八鹿村、高柳村、建屋村など旧養父郡内の地名が多い。それに、城崎郡の湯島、森村、朝来郡の加都、生野、二方郡の湯村など周辺の但馬各地の村の名前も見られる。宿南、八鹿を中心にして但馬各地から若者が学びに来ていたのだ。これらの塾生は、近くの者は自宅から通っていたが、遠方の者は書院本館の二階に寝泊まりしていた。

 しかし、だんだん草庵の名が広く知られるようになると全国各地から青谿書院に来るようになった。従来の本館の二階だけでは収容できなくなってきたために、二階建ての寮が2棟も建てられた(寮は現存はしていない)。寮生も多いときは、60名を超えるようなこともあったようだ。

 塾生の食事は、質素で倹約が大事にされていた。朝食は沢庵大根が3,4切れと粥、時にはごま塩が添えられていた。昼食は、ご飯と味噌汁で味噌汁の実は干し大根。夕食は茶漬けに漬け物であった、ということある。

 書院の周辺には畑があり、野菜などが植えられてある程度の自給自足もできたようである。(池田紫星『池田草庵』など参考)

                               (池田草庵先生に学ぶ会)
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その28 青谿書院の規則

 青谿書院では多くの若者が学んでいたが、今でいうところの校則のようなものは当初はなかった。問題になるような塾生の行動があれば、草庵先生が個別に親身になって指導していた。また、親への連絡もされて、学問に打ち込むようにされていた。

 しかし、明治時代になってから、塾生の間にもいろんな問題が出て来るようになって、草庵先生は「塾規」というものを塾生に示された。それは、わずか六か条からなり、書院で生活する上での心得のようなものであった。

 一、病気でやむを得ないときのほかに、塾生一同、起床・起居は一体であるように心がけること。
 一、塾中にては、飲食・気まま、もっとも厳禁のこと。
 一、塾中よく清掃し、学習用具・はき物にいたるまで、乱雑をいましむこと。
 一、外出・帰塾のときには、そのたびごとに申し出て、さしずを受けること。
 一、塾の外にあるときの行儀も、たいがい右に準ずること。
 一、平生の教育については、寮ごとの席長へ伝えてあるから、塾中のことは、いっさい席長へ相談せよ。

             (意訳・『草庵先生と青谿書院』より)


 この「塾規」が示されたのは、明治4年、青谿書院ができてから、25年ほども経ってからのことである。
 『肄業餘稿』でも塾生に「毎朝早く起き、顔を洗い口をすすぎ髪をとき、部屋の中を掃き、机の上をふき、衣服を整えて机に向かいなさい……」と指導されているが、そういう指導方針が『塾規』の基本になっている。また、「塾中のことは、席長へ相談せよ」とあるように、塾生の自治にも任せておられることがわかる。

           (池田草庵先生に学ぶ会)
             草庵先生紹介宿南小学校 書道教室

その27 四字熟語

 草庵先生の文章の中に使われている「四字熟語」は、たった四文字の中に先生の教えがよく分かります。(草庵先生は「四字熟語」として、取りあげて示しておられる訳ではありませんが)。宿南小学校では卒業していく子供達が、ここ数年草庵先生のその「四字熟語」を中心にして「書」にして卒業していっています。今年の三月、子供達は次のような言葉を書にして卒業していきました。

 ・志期高遠 (シキコウエン) 「志は高遠を期し、功は切近を貴ぶ」
    志は大きく高く持ち、実践は身近なことからやっていくことが大切である。

 ・兀座静黙(コツザセイモク)「兀座して静默す」
    静かに座って自分をみつめる

 ・満身汗流(マンシンカンリュウ)「満身汗流る」
    体から汗が流れだすほどがんばること。

 ・精思力践(セイシリキセン)「精思し力践す」
    ふかくこまかく思い、力いっぱい実践すること。

 ・人須自知(ジンスジチ)「人は須く(すべからく)自らを知るべし」
    人は自分を知ることが大切だ。 

 ・孜々読書(シシドクショ)「孜々として書を読む」 
    こつこつとしんぼう強く読書(勉強)する。

 ・静座学問(セイザガクモン)「「静座は学問なり」
    一人静かに座ることは、自分を育てるための大事な方法である。

 ・曰孝曰悌(エッコウエッテイ)「(凡そ人の人たるゆえんは)孝といい、悌という」
    人が人であるといえるのは、親を大切にし、兄弟と仲良く 暮らすことである。

 ・為学登山(イガクトザン)「学を為すは、山に登る(がごとし)」
   学問することは、登山のようなものだ。

            (池田草庵先生に学ぶ会)
              草庵先生紹介草庵先生 本

その26 日記のこと2

 草庵先生の日記(『山窓功課』)は、今、資料館のガラスケースの中に保存されている。ケースの外からそれを見ても、毎日のことが2,3行ずつぎっしりと書かれているのがわかる。毛筆で漢文混じりで書かれているので、今の私たちが読むのはなかなか難しい。

 その日記を全部解読し、私たちにも読めるように読み下してくださったのが西村英一氏である。西村氏は昭和十八年に宿南小学校長として赴任されて以来この日記の解読に努められ30数年をかけて全部の解読をされた。そして、昭和53年に、『池田草庵先生日記 山窓功課』として、上、中、下の3巻にまとめて青谿書院保存会から出版された。この本のおかげで、今私たちにも草庵先生の日記を読むことができる。

 『山窓功課』は、毎日の日記ではあるが、日々の出来事や周りの様子などの記述は少ない。それよりも、「功課」とあるように草庵先生自身がその日どんなに努力したか、励んだかの記録だ。

 例えば、安政7年(1860・48歳)2月19日には次のように書かれている(意訳)。
「早起、黙坐。人譜を講義。読み方の指導二人。午後、講義。夜は検読二人。この日、午前に北垣晋太郎が来て話し、午後に帰る。午後、出かけていた池口氏が帰院。午前には、『肄業予稿』二帖半清書終わる。『易』『周禮』を読む」

 早起きして黙坐をし、塾生の講義、その間に北垣晋太郎と話したり、『肄業予稿』の清書をしたり、読書したりしたことが、短く簡潔に書かれている。
      
               (池田草庵先生に学ぶ会)
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      草庵先生紹介        宿南小学校 そうあん発表会

その25  園児の発表

 昨年11月、宿南地区文化祭があり、その中で幼・小学校の学習発表がありました。幼稚園の園児は「草庵先生の教え」を発表してくれました。園児は5名だったのですが、会場に響きわたる大声を出し、ステージいっぱい動き回っていました。草庵先生の教えを、クイズ形式にして、動作も入れて説明してくれていました。大人でも難しいと言われる草庵先生の教えですが、園児でもこんなにして理解し身につけられるのだと大変感心しました。

 草庵先生の教えを園児から学びたく、その時の園児達のセリフなどを簡単に記します。

・「ふでばこなどの身の周りのものをととのえることをなんというでしょうか?」
「正解は、ひっけんせいせい(筆硯整斉)です」(大きな箱を整理する動作あり)
・「お手伝いや仕事を嫌がらずにすることをなんというでしょうか?」
「正解は、学ぶ者は事をいとい労を辞すべからずです」(そうじをする動作あり)
・「読書はていねいにして、じっさいに行動することがたいせつなことをなんというでしょうか?」
「正解は、読書は精をたっと(貴)び、用功は実を貴ぶです」(好きな絵本の発表あり)
・「汗がでるほどがんばることをなんというでしょうか?」
 「正解は、まんしんかんりゅう(満身汗流)です」(身体で全力のダンス表現あり)

                (池田草庵先生に学ぶ会)
               草庵先生紹介

その24  日記を書き始める

 草庵先生は、35歳になった年の新年から日記を書き始められている。それは『山窓功課』(最初は『山房功課』)』と名づけられ、66歳で亡くなる年まで30年余りも続けられている。

 それを書くにあたって、まずめあてが次のように記されている。
「弘化四年(1847年)

 月日はまたたく間に過ぎていっている。その間に、私は何をしたと言えるだろうか。そのこと思うと嘆かずにはおれない。それで今日からは、日々どんなに努力して成果があったかを記録して自分の反省の材料にしていく」(意訳)

 このような思いで、草庵先生は日々のことを書き続けられていったのである。

 その『山窓功課』の最初の日は、次のような記述から始まっている。  
「一月一日 村人五六人が新年の挨拶に見えた。また、塾生とも団欒し話しあった。しかし、その間に『通鑑綱目』の「唐文宗太和八年」の項より三十枚読む。夜半過ぎて就寝。

二日 村中の七八軒の家を挨拶に回る。文章を七枚ほど書き写す。『通鑑綱目』の「文宗開成四年」の項より十三枚読む。夜半、小酌して就寝」
新年の挨拶などであわただしい中でも、読書して勉強する草庵先生の努力の姿がよくわかる。なお、この年の6月には青谿書院が建てられそこに移住されている。
                 (池田草庵先生に学ぶ会)
 池田盛之助の碑            草庵先生紹介

その23 甥・池田盛之助 その2

 草庵先生は、甥の池田盛之助について、「兄弟の子は、自分の子のようなものだ。まして、盛之助については、叔父、甥という関係以上に、私のためによく尽くしてくれた」と、感謝をこめて書かれている。

 盛之助は、草庵先生が師友を求めて旅したときは、ずっと草庵先生のそばについていた。草庵先生の身の周りのことを世話しながら、その上に、その旅の毎日のようすを日記に書いて記録しているのである。

 林良斎などに会った四国、中国地方の旅は、『中州遊覧日記』として書いている。例えば弘化2年7月29日に八鹿を出て、和田山、生野、姫路を通って岡山に出て、船に乗って瀬戸内海を渡り、8月10日に林良斎のいる今の香川県多度津に着いたことなどを毎日書いている。それ以後も、9月24日に帰郷するまで日々のことがこまめに書き続けられているのである。

 またその後、一人で林良斎の元に遊学したときには『己酉(きゆう)日記』として、草庵先生とともに江戸の佐藤一斎を尋ねた時には『一斎先生訪問日記』としてそれぞれまとめられている。これらは草庵先生の動静がわかるだけでなく、その時代の儒学者たちのようす、その土地のようすまでわかる貴重な資料となっている。

盛之助は、佐藤一斎を訪問しての帰り、病に倒れ、帰国後亡くなった(享年26歳)。草庵先生は、その死を悲しまれ『姪盛を祭るの文』で盛之助のこの世での功績を称えられている。そして、盛之助のお墓には『池田盛墓名碑』として文章を刻まれている。
               (池田草庵先生に学ぶ会)
                草庵先生紹介

その22 甥・池田盛之助 1

池田草庵が青谿書院で学者として、教育者として大成した陰には、それを支えた池田盛之助の力が大きかった。

 盛之助は草庵の兄の士定の長男で、草庵の甥になる。草庵が京都の松尾山の山中で一人学問していたときから、草庵の身辺のことを手伝い、そのかたわら学問もするようになった。その時、草庵は27歳、盛之助は13歳の少年であった。

 松尾の山中では、草庵は自分の食べていくのにも苦労するような質素な生活をしていたので、盛之助の面倒を見るのは、最初少しばかり躊躇していた。しかし、盛之助は草庵の、身の周りのことは全部やってくれるし、よく気がつく少年であった。そして、学問についても、草庵について一生懸命学ぼうとする姿勢があった。草庵は、自分が学問することに集中できるようになり、また盛之助の性格や才能にも、期待するものが大きくなっていった。 その後、草庵が松尾山から京都市中に塾を開いたり、八鹿に帰って来て立誠舎で塾を開いたりした時も、いつも草庵の側にいて草庵を助けていた。

 宿南に青谿書院を建てたことや草庵が35歳で結婚したことなどについても、「盛之助が尽力してくれた」と草庵自身が文章に書いている。

 草庵は、自分があちこち師友を求めて旅するときも、いつも盛之助を連れて行っている。また、自分の尊敬する京都の春日潜庵とか、四国の多度津の林良斎の所に、勉強させるために送り出している。今でいう留学ようなものであろう。

 大きな期待をかけていた盛之助であったが、江戸の学者佐藤一斎を一緒に訪問しての帰り、盛之助は病に倒れ、帰国後亡くなったのである(享年26歳)。草庵は、その日の日記には「九つ時、盛や、遂に逝けり」とだけしか書くことができず、その死を悲しんだ。
                 (池田草庵先生に学ぶ会)
                      草庵先生紹介

その21 尋師訪友その2

 草庵先生が立誠舎で講義をするようになって3年目(33歳)、「尋師訪友」の旅に四国、中国方面に出かけた。当時の有名な儒学者を尋ね、教えを請い、意見を交わしている。

 讃岐(香川県)の多度津藩では、家老職を勤めたことのある林良斎と出会うことができた。面会の翌日、まだ宿にいる草庵に、林良斎からお礼の手紙が届いた。会見は良斎にとって「大慶(タイケイ=大きな喜び)」であつたことが記されていた。それに対しての草庵はすぐに返事を書いた。「同じ仲間で昔からの知り合いのように感じられました。国内の数少ない同志の一人であり、肉親のように思われました。……」と。

 その後、二人は同志として、心友として数多くの手紙のやりとりをして切磋琢磨していった。

 草庵先生が青谿書院に移って4年目(39歳)、今度は江戸に佐藤一斎を尋ねた。一斎は当時の有名な儒学者で、江戸幕府の作った昌平黌で教えていた。草庵は面会を求めた手紙の中で、「私の人生も半ばを過ぎようとしています。今、求めて学ばなければなりません。そのために、千里の道を遠しとせず、ただ先生の門下に加えていただきたく参りました……」と書いている。

 この時の面会は、草庵先生にとっては期待はずれのようであったが、一斎の高弟たちと交わることができたのが収穫であった。しかしその帰途、草庵のそばにあっていつでも草庵を支えていた甥の池田盛之助が重い病気になり、亡くなるという不運があった。
                   (池田草庵先生に学ぶ会)
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                  草庵先生紹介

その20 尋師訪友その1

草庵先生の『青谿書院記』いう文章の中に、自分は「尋師訪友(ジンシホウユウ・師を尋ね友を訪う)」で学問をしてきた、と書かれている。師や友を尋ねたり訪問したりして、直接に教えを受けるというのは、とても大切な学問の方法である。

 草庵が満福寺で修行していた時、広谷に来ていた儒学者の相馬九方に出会い儒学に目覚めた。そして、九方が京都に帰るときには、「私を生んでくれたのは父母であり、私を教えてくれたのは先生である」と九方との別れを惜しんで送別の言葉を送っている。そして九方が去ってから一年ほど経てから、どうしても儒学の道に進みたく、満福寺を抜け出して九方の後を追って京都に出た。師を追い尋ねていった「尋師」であるが、この時は、非常にきびしい状況の中での「尋師」であった。

 相馬九方の塾に入って、そこで雑用や助教の仕事をしながら、草庵先生は学問を続けた。その頃巡り会ったのが生涯の友人となる春日潜庵だった。潜庵は公家につながる家の出身であった。潜庵は草庵を物心両面から支援している。草庵の京都時代、親しい友人というのは、この潜庵だけであった。後に草庵が青谿書院から潜庵に、その頃のことを思い出して手紙を書いている。「私と貴兄は、会いたいと思えばすぐに訪ねあい、学問を論じ歴史を語り合った」と。草庵と潜庵とは生涯「訪友」の関係であったが、それは「心友」「益友」とも言える間柄でもあった。
                 (池田草庵先生に学ぶ会)
 吉田公平先生の講演      草庵先生紹介

(19) 吉田公平先生の講演から

 7月に青谿書院で「夏の青谿書院塾」があり、吉田公平先生(東洋大学名誉教授)の話がありました。儒学とくに陽明学の研究者として日本有数の先生が、『生きることは学ぶことー池田草庵先生の遺産』として話されました。草庵先生を知るのにとても参考になる話でした。その中から、いくつか紹介します。

・江戸時代になって戦争のないに時代なった 。明日、そして 将来に希望が持てるようになった。それ以来儒学では明日に向けて仲間とどう生きるかが問題となり、草庵先生も、みんなと一緒に幸せを求める生き方を追求していった。みんなと一緒に生きるためには、他人も認めなければならない。そのために、人間はみんな生まれながらの良さを持っているのだ、人間は本来善なのだという考えに立った(性善説)。

・草庵先生は偉い人を育てた(北垣国道や原六郎など)と言われる。しかし、それだけではいけないのではないか。青谿書院で学んだ人の中には、有名ではなかったが、それぞれの地域で、自分の職責を全うしてみんなと生きる生き方をした人がたくさんいる。そういう人が地域をつくり、世の中を作ってきたはずである。青谿書院には、完璧な門人帳が残っているので、これから追求できるだろう。

・そのころ、政治の中に身を置いたり、革命的な行動をしたりする学者もあった。そういう学者が、草庵先生に「山あいに引っ込んでいないで、政争の中に出て来て役に立つようなことができないのか」と言ってきた。草庵先生は「お互いに置かれている立場で自分の仕事を全うすればいい。私は武士になりたいとも思わないし、特別の出世も望まない」と返事して、政治から距離をおいて、地域の人とともに生きる生き方で青谿書院で一生を過ごした。

・草庵先生は、学びの前には平等という考え方であった。それで、青谿書院には、百姓の子も、殿様の子も、武士の子も学びにやってきた。

・池田草庵先生のことを昔立派な人がいたそうだ、と懐かしがるだけでは草庵先生は、単に昔の人として飾っておくことだけになる。草庵先生の生きた姿、考えたこと今を生きる私たちも大いに参考にしていきたい。

 この一日を精いっぱい生きること
 生きている限り学ぶこと
 学んで自分が変わっていくこと、それは「日に新たなり」となること
 他者に働きかけて、自他の恵みに感謝して、最期を受け入れること
こういう草庵先生の生きた姿と考え方は、今に生きる文化遺産といえる。
                (池田草庵先生に学ぶ会)
             草庵先生紹介

(18) 宇都宮藩の招きを断る

草庵が35歳で開いた青谿書院は、次第にその名が知られるようになり、全国各地から若者が来るようになった。その中に、宇都宮藩の岡田真吾がいた。岡田は草庵の友人である春日潜庵の所で学んでいたが、ある時潜庵の薦めがあって、青谿書院を訪問して草庵に面会したのである。草庵の話を聞き、教えを受ける中で、草庵の学問の深さや人柄に惹かれた。

 その頃、宇都宮藩(現栃木県内)では幼い世継ぎのために、その教育をしてくれる人を探していた。帰国した岡田真吾は、すぐに草庵を強く推薦した。宇都宮藩には、「修道館」という藩校があって、そこの教授達も候補に上がっていたが、岡田の熱心な推薦によって、世継ぎの藩主の師匠は草庵にと決まった。待遇や官職は破格なものであった。その時草庵は40歳になっていた。元気さかんな年令である。

 当時、各藩には、出石藩では弘道館、豊岡藩では稽古堂というように藩校というものがあった。そこで学問を教える者は、代々世襲も多く、外部から呼ばれるようなことは余りなかった。しかし、学問で身を立てる者の多くは、どこかの藩に任官されたいと願っていた。それは、大変な出世であり、生活も安定することであった。 しかし、草庵は宇都宮藩からの申し出を断った。出世や生活の安定よりも、山あいの青谿書院で自分の修養と若者へ教育する道を選んだのである。
               (池田草庵先生に学ぶ会)
                   草庵先生紹介

(17) 「養老会」その2

草庵は、村の人たちと相談して、青谿書院に村の80歳以上の人を招いて養老会を開くことにした。そのことを、草庵は『養老会記』という文章に書き残している。その中には、会の様子がおよそ次のように書かれている。

 養老会は年一回、季節のよい四月五月に開く。この会は、村の老人の方々に安心しくつろいでもらうためであり、また老人を敬う気持ちを村に広めるためでもある。

 会は決して堅苦しくならないようにして、老人が楽しく過ごせるように心づかいをした。会の中心である宴会は、食べ物は豪華なものではないが、老人の口にあうようなものを工夫し、酒は気分よくなるぐらいにした。
そして、宴会の後みんなで、心置きなく語り合う。それは自分の仕事、今までやって来た仕事のことなどで、桑や麻、それに機織りのことなどがよく話題になっていた。それを側で聞いていると、ほんとうに純朴で誠実なお年寄りの人柄が出てくる話で、今の若い人にはとても及ばないようなものであった。こういうこと聞いて、若い人がお年寄りに学ぶ風習が広まっていくことを願う。

「養老会」は、お年寄りに感謝し、その人柄、智恵に学んで、ふるさとで共に生きていこうという草庵の願いがこもった会であったのだ。
                   (池田草庵先生に学ぶ会)
               草庵先生紹介

(16) 「養老会」その1

 青谿書院は、学びに来る塾生や修養する池田草庵だけのものではなかった。地域の人たちにも開かれることがあった。その中の一つが、「養老会」である。これは宿南村の80歳以上の老人を青谿書院に招き、食事などを振る舞い、みんなで楽しい時間を過ごしてもらう会であった。これは、今の「敬老の日」のような行事で、一年に一度開催していた。そのことを草庵が、『養老会記』という文章に書いている。

 「養老会」は、安政2年(1855年・草庵43歳)から始まっている。青谿書院が建ってから、およそ6年後である。『養老会記』には、「宿南村の戸数は、234戸、人口は1073人で、80歳以上の人が12人いる」と書かれている。今の宿南地域とは単純に比較できないが、宿南の歴史を考えてみる上でも興味ある数字である。 

 老人を大事にし、老人に学んでいく養老の制度は、中国の古い時代孔子のいた時代からあった。しかし、時代を経るにつれてその制度は廃れてきた。日本の奈良・平安時代には政治や文化など多くのことを中国から取り入れ学んできたが、この「養老」の制度は余り取り入れられなかった。徳川の時代(江戸時代)になって、幕府は徳(思いやりなど)を広めようとしていたが、十分広まっていなかった。そこで草庵は、「徳の気持を広めるために、万分の一の助けにでもなればと願って、昔にならって」養老会を開くことにしたのである。

 養老会が、実際にはどのようなものであったかは次回に紹介したい。
                       (池田草庵先生に学ぶ会)
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                草庵先生紹介

15 書院の寮

 青谿書院塾生は、近くの者は家から通い、遠方の者は書院の寮に寝泊まりして学んでいた。その寮の様子を、前回同様明治40年に出版された『但馬聖人』(豊田小八郎著)から紹介してみる。

 もともと書院の二階は寮として塾生が寝泊まりしていたが、青谿書院の名が知れわたってくるにつれて塾生が多くなり、そこだけでは足りなくなってきた。そこで書院の横に寮が二寮新築された(現存はしない)。多いときは、寮生だけで60人を超えることもあった。

 塾生は質素な寮生活していた。食事は、一年を通じて朝は粥(かゆ)にたくあん三、四切れ、時々ごま塩が出た。昼食は、温かなご飯に干し大根入りの味噌汁、夕食は茶漬け飯に漬け物、というようなものだった。

 書院の周りには畑があり、野菜などを塾生が育てていた。また、米、塩、薪などの買い出し、水汲み、食事作りなど塾生自身が当番を決め、自主的になされていた。塾生の中には、これらのことは他に誰かを頼んでやればと申し出る者もあったようだが、草庵先生は「倹約質素の精神を養うためにも、無駄を省くためにも、運動のためにも必要なこと」と言って、断固として申し出を聞かれなかった。

 寮はいつでも清掃がいきとどききれいで、その中で塾生も整然とした生活を送っていた。
                           (池田草庵先生に学ぶ会)
                 草庵先生紹介

14 書院での教授(授業)

 青谿書院ではどのようにして勉強が進められていたのだろうか。明治四十年に発刊された『但馬聖人』(豊田小八郎著)によりその内容を紹介してみる。
 「先生の教育は、身を以てし、口を以てせず」とまず書かれている。これが草庵先生の塾生を教育する基本の姿勢であった。
 先生は、毎朝、線香を立ててそれが燃え尽きるまで静かに座って身心を整えてから塾生たちに向かわれた。塾生は年長順に講堂にならび、まず先生に頭を垂れて礼をし、それからお互いに礼をしあうことから始まった。
 教授(授業)の内容は、儒学の基本の書物である「論語」「孟子」「大学」「中庸」等が教科書として取り上げられることが多かった。これらは漢学の力を高めるためだけでなく、人の生き方、世の中のあり方などについても考えさせてくれるものであった。
 学級というような枠はなかったが、同じような力の者を集め教授されることも多く、多い人数の所では数十人、少ないところで数名に対して教授されたようだ。また、なかなか理解がし難い塾生の一人二人のために特に教授されることもあった。これらを先生一人でやられるのはなかなか大変で、やはり線香に火をつけて時間を測りながら順番にやられることもあった。また、年長の塾生を指導者として年少の塾生の指導に当たらせたりされることもあった。その場合でも、指導に当たる塾生にはあらかじめ内容を教えてから指導に当たるようにされていた。
 先生の「身を以てし、口を以てせず」の方針は、現代の私たちも強く反省をさせられるところである。家庭教育でも、学校教育でも、今は「口を以てし、身を以てせず」が多くなって、上滑りの教育になってしまっている傾向にあるのではないだろうか。
                            (池田草庵先生に学ぶ会)
 そうあんくん              草庵先生紹介


13 みんなに歌われて
 八鹿町内の中学校でも、池田草庵先生は校歌の中で歌われてきた。
 青渓中学校は昭和32年の創立である。それまであった宿南中学校、伊佐中学校が合併して誕生した。その校歌は第一代の校長であった渡辺武一先生が作詩された。


青渓中学校歌(渡辺武一作詞)
(一)
    山脈(やまなみ)さやかに ゆく水と      2行目の「但馬にかおる 先賢の」
    但馬にかおる 先賢の             というのが、草庵先生のことをさしている。
 名に負うわれら青渓中               「但馬全体に知れわたっている立派な先人の
   岸辺のあしに なぞらえて            名前を引き継いでいるわれら青渓中」
    渕と讃える愛と知に              というようなことであろうか。
    渇くいのちを 養わん


八鹿中学校は、昭和39年、八鹿中学校、高柳中学校が合併して誕生した。
校歌の作詩は、その頃日本でも著名であった作詞家に依頼された。


八鹿中学校(今井広史作詞)
(一)
青い谷の奥から 吹きおこる風よ         1行目の「青い谷」が青谿書院をさしている。
匂い立つ さわやかな希望の眉よ         「青谿書院から風が吹き起こってきて
円山の岸辺に 虹かかるあしたは        学問の雰囲気が立ちこめ さわやかな
讃えよう 花ひらく 若いいのちを        希望いっぱいの目が輝いている」
ああ 八鹿中学 若い日の夢を讃えよう    というようなことであろうか。


平成22年に統合した八鹿青渓中学校の校歌には、草庵先生につながる言葉はない。
しかし、大事な校名の「八鹿青渓中学校」に、草庵先生の精神は引き継がれている。

                           (池田草庵先生に学ぶ会)
 草庵先生の歌  草庵先生紹介

12 みんなに歌われて

 今、宿南小学校の児童が、新しく作られた「草庵先生の歌」を校内だけでなく、町民文化祭などでも元気よく歌ってくれています。草庵先生が子どもたちの歌を通して、宿南地区を超えて広まっていっているように思います。
草庵先生は、ずっと前から宿南小学校の校歌の中でも歌い続けられてきました。今の宿南小学校の校歌は、昭和10年前後にできたそうですから、もう七十年程も前のことになります。それから何千人もの宿南小学校の子どもたちが歌い続けてきたことになります。

 校歌の一番の歌詞で、草庵先生のことが歌われているのです。


宿南小学校校歌 (松井岩男作詩)          (意訳)
一 わが郷は なぐわしき里              (私たちの郷は名高い郷だ
  源氏山 大き聖の                   源氏山のふもとで偉大な聖人が
  垂れましし み教永遠に                説かれた教えは永遠に
  かがやきて 常に燦たり               輝いて いつでもきわだっている
  仰ぎて 我等 正しく生きん             それを学んで 我らは 正しく生きよう
  あした ゆうべに いざやはげみて         日々 いっしょうけんめいに はげんで)


 歌詞は文語文で格調高いものですが、子どもたちには意味のわかりにくい言葉もあるようです。でも、子どもの時は言葉の意味よりもとにかく歌を覚え、大きくなってから「そういうことだったのか」と納得するのも、いいのではないでしょうか。

 先年合併するまでの青渓中学校、八鹿中学校の校歌にも草庵先生のことは歌われていました。そのことについては次回で触れたいと思います。

                                     (池田草庵先生に学ぶ会)
 そうあんくん 北垣国道 草庵先生紹介

11 池田草庵先生と北垣国道さん

 過日、八鹿公民館主催の「池田草庵・北垣国道ゆかりの地を訪ねて」という、京都市内のゆかりの地を訪ねるツアーがありました。草庵先生が、ひとり山中で勉強した松尾神社や、京都で開いた塾のあった辺りなど巡りました。そして、北垣国道さんが開いた琵琶湖疎水やその記念館なども見学しました。

 北垣さんは京都府知事として、琵琶湖の水をなんとか京都市内に引いて、飲料水や農業用水、工業用水として利用して、京都市民の生活を豊にしたいと考えたのです。これは京都市民の長年の夢でもあったのですが、今まではいろんな困難があり実現できませんでした。それを北垣さんはやり遂げたのです。それが琵琶湖疎水で、今も京都の市民を潤しています。京都市内には、疎水記念館や、北垣さんの銅像が建てられ、今も北垣さんを尊敬し感謝しています。

 その北垣さんは、建屋の能座の出身です。7歳で草庵先生の立誠舎に入門し、それから青谿書院に移り、合計20年近くも草庵先生の側で教えを受けました。北垣さんは草庵先生の思い出を書いています。少年のころ、何かいたずらをすると、先生も北垣さんとならんで静座され、北垣さんが心から反省するまで一緒に座っておられたそうです。そして、北垣さんは次のようにも書いています

(意訳)
「先生の全身、全人格で私は教育された。それがなければ、愚かな私は、どうして今があるだろうか。仕事をしていく上でも、いろいろ困難なことがあったが、その責任を果たすことができた。これはみんな先生の教えのおかげである。恩の大きさには、誠に限りがない」青谿書院でこのような教育を受けた門人たちが、北垣さんのように日本のあちこちで活躍したのでした。

                                       (池田草庵先生に学ぶ会)
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 進美山 草庵先生紹介

10 自然の中で

 草庵先生は、たびたび、塾生を連れて周辺を歩いたり、蛍を見に出たり、近くの山に登って月を眺めたり、宿南の自然を楽しんでおられます。
 前に紹介した草庵先生の「青谿書院記」の文章の中にも、書院付近の自然のことが書かれています。

まず、青谿書院から見える鷹巣厳(たかすのいわ)や進美山、赤崎の山々、そして円山川などが、美しい景色だ、として書かれています。

 次には、 「春はすなわち其の新緑を愛し、夏はすなわち其の涼風を迎え、秋はすなわち黄葉爛漫(ランマン)、冬はすなわち氷雪皎潔(コウケツ=白色の清潔さ)たり」 とあります。春は新緑、夏は涼しい風、秋はもみじ、冬は氷や雪の美しさ、というように一年を通して書院の周辺には自然の変化、すばらしさがあることを紹介されています。 この文章の次には、今度は一日の変化や美しさが続きます。
「朝には、雲のような霧のようなものが煙のようにたなびき、いろいろと姿を変える。夕方には、夕日が照り、清潔でひっそりとした静かな雰囲気を作り出している(意訳)」 このように変化に富み、美しい宿南の自然を、草庵先生は一生愛し、楽しまれていたのです。

                                       (池田草庵先生に学ぶ会)
                  草庵先生紹介

9 「青谿書院」の名前の由来

 「青谿書院」という名前はどうしてつけられたのでしょうか。名前の由来は、今まで紹介してきた「青谿書院記」の中に書かれています。

 「青谿書院記」では、青谿書院の建っている所の山は「源氏」といい、反対の向かいの山は「夜気」というと書かれた後、「間に流泉有り、青山川と曰(い)う。青谿の由りて名づくる所なり。」と書かれています。「源氏山と夜気山の間に小川があり、それは青山川という。そこから、『青谿』という名前にした」ということでしょう。「谿」というのは、現在の常用漢字では使われていませんが、「渓」「谷」という意味です。ちなみに「書院」というのは、塾とか学問するところというような意味があります。

 かつての「青渓中学校」、そして現在の「八鹿青渓中学校」の名前も、本来なら「青谿」となるところでしょうが、現在の常用漢字の関係で「青渓」となっています。

 草庵先生はふるさとの地名から、「青谿書院」という名前をつけられたのです。さらに、「青」という漢字は、「青年」「青春」などと使われるように、そこで「若者」を育てていきたいという願いも込められていたのかもしれません。
                                       (池田草庵先生に学ぶ会)
 「青谿書院記」石碑           草庵先生紹介

8 「青谿書院記」その1

青谿書院のモミの木の横に、「青谿書院記」という、石碑が建っています。これは先生の没後二、三年して門人達が建てました。石碑に書かれている文章は、草庵先生の「青谿書院記」という文章がそのまま使われています。書はそのころ日本でも著名な書家の長三州が書いたものです。

 「青谿書院記」の文字数は五百九十二字ですが、この中には、青谿書院は何をする所か、何をやっていきたいのか、そして、自分の生い立ち、周りの景色等々などが簡潔な文章で書かれています。

 「青谿書院記」の冒頭は「青谿書院は池田緝(しゅう)、読書のところなり」、とあります。「青谿書院は、池田緝(草庵のこと)が読書をし、学問を深め、若者を育てていく」という意味でしょう。

 続いて自分が故郷を出て、京都で学び、それから再び故郷に帰ってきてこの青谿書院を建てた生い立ちが書かれています。
 その中に、自分の学問の仕方として「(自分は)師を尋ね、友を訪問して学問した」とあります。自分の師となる人を尋ねて遠くまで行ったり、友人を訪問して切磋琢磨して学問を深めていったということでしょう。こういう学問の仕方は、今でもとても大切なことで、県立八鹿高等学校ではこの草庵の文章から「尋師訪友(ジンシホウユウ・師を尋ね友を訪れ)」という言葉を校訓として使っています。
                                         (池田草庵先生に学ぶ会)
 青谿書院への石段           草庵先生紹介

7 青谿書院の庭

弘化四年(1847)、今から167年前、草庵先生は念願の自分の住まいであり、塾である青谿書院を宿南の源氏山のふもとに建てることができました。
今もその時のたたずまいが、ほとんどそのままに残り、その周辺を含めて兵庫県指定文化財として指定されています。当時のままの石段を上ると、青谿書院の庭に出ます。
そこには、大きなモミの木が立っています。これは、青谿書院が開かれたとき、塾生達が記念して植えたものです。この時、庭にはマツ、カシの木も同時に植えられました。
いずれも、天に向かって高く伸び、冬になっても落葉しないで緑が一段とさえる木々です。しかし残念ながら、マツ、カシの木は今は枯れてしまって、モミの木だけが残っています。モミの木はまるで青谿書院の歴史を見続けているようです。

 モミの木のすぐ横の方に、石碑が建っています。「青谿書院記」という、草庵先生の文章が石に刻まれています。この文章は、青谿書院ができてから十年経ったときに、そのことを記念して草庵先生が書いたものでした。先生の没後、門人達が何か草庵の精神の伝わるものをと願い、この文章を石碑に刻み残したのです。この「青谿書院記」という文章は、草庵先生が自分が亡くなってからも青谿書院というのは、どういうところなのか、何のために建てたのかわかるようにと、大変力を入れて書いたものでした。
                                    (池田草庵先生に学ぶ会
 青谿書院        草庵先生紹介

6 宿南に帰りたかったが

 草庵が故郷に帰るようになったことを、『青谿書院記』という文章の中で書いていることは、前回にも紹介しました。前後のことも含めてもう一度紹介します。

「年令は30歳も過ぎた。故郷に帰ることにした。帰ってみると自分の住まうところはなかった。それで八鹿の西村潜堂氏の山館を四、五年借りた」(意訳)と、書いているのです。
「帰ってみると自分の住まうところはなかった」(=「其の帰るや居止する所無し」)というのは、どういうことでしょうか。草庵は生まれ育った宿南の地に帰りたかったに違いありません。しかし、自分の住める家はなかったのです。

 それは、実家は兄が継いでいて、次男の草庵は住めるような状況ではなかったということもあるでしょう。草庵の兄の長男・盛之助は農家としての実家を継いでいませんでした。草庵が京都にいるときから草庵の弟子になり、儒学者としての道を歩んでいました。そういうこともあってか、実家の家運は少しずつ傾いていっていたようです。

 宿南に帰ることができなかった草庵は、ひとまず「八鹿西村氏」の立誠舎を借りて、塾を開いたのです。しかし、草庵の宿南への思いは強く、宿南の地に自分が住み、塾も開きたいという念願を持っていました。そして、4年余り経って里から少し離れた山あいに「青谿書院」を建て、移り住むことができたのです。
                                  (池田草庵先生に学ぶ会)
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 立誠舎      草庵先生紹介  池田草庵 本

5 立誠舎の時代

 草庵は、もっと京都にいて師や友人達から刺激を受けたり、学問を深めたいという思いもありましたが、故郷の人たちの強い勧めもあり草庵は故郷に帰る決断をしました。草庵は31歳でした。19歳で満福寺を出てから、約12年間の京都での修業を終えたのです。草庵は、この後亡くなるまで、旅行などは別にして故郷を離れることはありませんでした。

 故郷に帰った時のことを『青谿書院記』という文章の中で、次のように書いています。「帰ってみると自分の住むところはなかった。それで八鹿の西村潜堂氏の山館を四、五年借りた」と。

 その西村氏の山館というのが、「立誠舎」です。先ごろ復元されました。立誠舎は今の八鹿町諏訪町の山麓にあり、もともと、西村氏が先祖を弔うために建てたお堂でした。それが、後に近隣の若者達のための塾としても活用されていたのですが、潜堂氏が亡くなってからは使われていなかったのです。
 「立誠(=誠を身につける)」という言葉は、儒学を学ぶ草庵にとっても大事な目標で、その名前をそのまま使って塾を始めました。塾生は、寮を建てなければならないほどに増えていき、4年後青谿書院を建て、移って行くまでに60数名の入門者がありました。
                                   (池田草庵先生に学ぶ会)
 池田草庵           草庵先生紹介

4 京都の時代

 19歳で満福寺を出た草庵は、31歳で故郷但馬に帰ってくるまでの12年間ほど、京都にいました。草庵先生(以下敬称を略します)が故郷を離れて生活していたのはこの期間だけでした。

 草庵は、満福寺を出て相馬九方先生の後を追い、京都に向かい九方先生の塾に入ることができました。塾の雑用をしながら生活し、九方先生の元で学んでいったのです。草庵の勉強ぶりは、九方先生も驚くほどで、すぐに九方先生の講義の手助けをするようになりました。ここで、草庵は、名は緝(しゅう)、字は子敬としました。また、この塾で、生涯にわたり心から信頼できる春日潜庵と親しくなることができました。ここには4年間程いました。

 やがて、自分の道に独力で進みたいと考え、京都の西、嵐山の麓の質素な庵のような所に移り住みました。生活は大変厳しいものでしたが、親友・春日潜庵や村人たちに助けられながら生活し、儒学の古典である『論語』『大学』『中庸』等の本を徹底的に読み、人としての生き方について学び、考えていきました。その頃の様子を自分の漢詩の中に、「終日座して読む古人の書(一日中部屋の中に座って昔の人の書いた書物を読んでいる)」と書いています。この頃から、「草庵」という名を使うようになっています。

 そして、山に入ってから6年後、自分の考えがまとまり、再び京都の町中へ出て、池田塾を開きました。草庵の勉強ぶりや立派さは故郷の人たちにも知られるところとなり、故郷に帰って若者たちを教えてほしいと願う人たちも出てきました。
                                  (池田草庵先生に学ぶ会)
 満福寺   草庵先生紹介   そうあんくん

3 満福寺の時代

 草庵が満福寺に入ったのは11歳(数え年)です。今の小学4、5年生くらいでしょう。満福寺で、小僧としての修行が始まったのです。(お寺での名前は弘補(こうほ)ですが、ここではわかりやすいように草庵の名を使います)お寺の行儀作法はもちろん、文章を読んだり書いたりすることも、よくできるようになっていきました。

 住職である不虚上人は、そんな草庵を見所があると大きな期待をかけ、将来は自分のあと継ぎにも、と思うようになっていました。後に草庵は、不虚上人の思い出を次のように書いています。「不虚上人は、私を自分の子のように大事にしてくださった。着物や食べ物のことから、読む本など勉強のことまで心を配ってくださった。(中略)師は私にとって父の慈愛と師の恩義との二つを兼ねておられました。この恩は言葉に表せないくらいです」

 そんな草庵でしたが、17歳の時、広谷にやってきた儒学者・相馬九方と出会ったのです。草庵は九方から学ぶうち、お寺で学んでいる仏教よりも儒学(孔子の教え)の方に心を惹かれるようになったのです。「儒学の道に進みたい」と強く思うようになりました。草庵は、不虚上人にも、自分の思いを言いましたが上人からは許してもらえません。草庵はこれからの自分の進む道について大変悩む日々が続きました。

 しかし、19歳の時、とうとう無断でお寺を抜け出して、相馬九方のいる京都に向かったのです。恩義ある不虚上人に背いてまで自分の意志を貫いたのです。その後、草庵は上人に許しを得ることもでき、生涯このことを忘れず勉学に励みました。
                                  (池田草庵先生に学ぶ会)
 「池田草庵先生の誕生の地」 石碑      草庵先生紹介
 2 両親のこと
 
 池田草庵は、江戸時代の終わりに近い文化10年(1813)7月23日に、宿南川西区の農家に生まれました。
四人兄弟の三番目でした。今年は西暦2013年ですから、ちょうど200年前ということになります。
川西の草庵の誕生地の辺りには、「草庵先生之生誕地」という石碑が建てられています。

 草庵が十歳の時に、やさしかった母親が病気で亡くなりました。母親は、現在の丹波市青垣町の出身です。その時は、父親も病気になっていて、
家のくらしは苦しくなっていくばかりでした。家は、草庵とは十歳余り年上の長兄が継ぐことになり、次兄と弟は大阪の商家の奉公に出ることになりました。草庵は
広谷の満福寺に小僧として入ることになりました。兄弟はみんなバラバラになってしまったのです。

 お寺に入ってまもなく、病気だった父親も亡くなってしまいます。幼い時に両親を相次いで亡くし、兄弟もバラバラになったことは、その後の草庵の成長にとって
大きな影響があったと思われます。草庵は、二十七歳のときに、父母の思い出を文章に書いています。父親については、「私が目の病気になったとき、
暗い山道を私を背負い神社に数十日間もお参りをしてくれた」と父の恩が忘れられないこと、また村の人たちのためにいろいろと力を入れていたことなど
父のえらさについて書いています。 また、母親については、「幼い時、いつも母親に甘え、添い寝をしてもらっていた。ある夜、目がさめると、
母親が機織(はたおり)をしていてそばにいなかった。私が泣いていると、母親は『もし私が死んだらどうするのですか』ときびしく言った」ことなど、
やさしさの中に子どものためにはきびしさのあった母親のことを書いています。
草庵は、父母の生き方や思い出を大切に胸に秘めて、その後を生きていったのです。

                                  (草庵先生に学ぶ会)
 冬の青谿書院      草庵先生紹介


 1 青谿書院

 宿南地区の門前に青谿書院があります。これは江戸時代の終わり弘化4年(1847)に35歳になった池田草庵先生(以下の文では敬称略します)が建てたものです。
青山から流れてくる川の谷(谿)のそばに建てた、ということから「青谿」と草庵自身が名づけました。

 青谿書院は、今で言えば大学や専門学校のようなものだったと言ってもいいでしょう。勉強をしたいと願う向上心のある若者達が近くの但馬内だけではなく、
九州の大分県や佐賀県、関東の栃木県など全国からもやってきていたのです。
 そこで草庵は主に儒学を教えていました。儒学はその時代の日本の大事な学問で、ずっと昔中国から伝わってきたものです。
それを勉強するには漢文の読み書きの力が必要です。草庵は、漢文の読み書きを教えるだけでなく、儒学の根本である「人としてどう生きたらいいのか」
「世の中はどうあればいいのか」なども教え、いっしょに考え実践していきました。
 江戸時代は、士農工商というような身分制度が定められていた時代です。武士の子弟は、学問や武芸に励むためにそれぞれの藩につくられた藩校にいくのがあたりまえ
でした。出石藩には弘道館、豊岡藩には稽古堂などがつくられていました。
 そういう時代ですから、学問にすぐれているからといって農家出身の学者に、武士達が教えを請うというようなことはなかなか考えられないことです。しかし、青谿書院には、
近くの農家の子弟はもちろん、出石藩、豊岡藩、そして遠くの藩の武士も学びにきていました。それだけ草庵の学問や生き方がすぐれていたと言えます。

                               執筆者  米田啓祐
 
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